「*」の日記帳 |
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パスタ屋に到着すると、「あの人」はいつもより一層私を優しくエスコートしました。 扉を開けて私の手をとり店内へ案内する振る舞いに不自然は一切感じられず、私も知らずそれに従うようになっていました。 席に通され、「あの人」はイタリアンのコースを二人分と、ワインをデキャンタで注文します。 ソムリエがテイスティングをと持ってきたそれは、イタリアンワインの中でも私が特に好むものでした。私は「あの人」にワインの話など一度もしたことはありません。何時の間にそんな事まで?と聞くと「あの人」は偶然だと笑いながら答えました。 食事は極めて上品に。そう、私が今までの全ての恋人に足りないと感じていた優しく品のある時間を「あの人」は余すことなく提供しました。 私が最初に笑ったのを見て、「あの人」はとても嬉しそうに 「やっと笑ってくれた」 と言いました。そうしてだんだんと私の緊張が解れ、会話は恋人との関係に踏み込まれました。 「今の彼、不満はないの?」 と突然「あの人」は私に聞きました。もう数杯ワインを飲み、酔いとカンツォーネが心地良くなっていた私は 「それはたくさんあるわよ」 と答えてしまったのです。「あの人」はそれを全て話してごらん、と優しく言いました。もうすっかり、「あの人」のペースに巻き込まれていました。仕事のこと、考え方や価値観の違い、そして何よりこうした時間を共にできない事を私は一気に「あの人」に話してしまいました。「あの人」は前とは違った少し謙虚な口調で言いました。 「俺は君に相応しくないかな」 「どういう事?」 「少なくともこう言う時間を提供するだけの品性は、俺は持ち合わせているよ。君にとってそれが満足の一つとなるなら、俺は喜んでそれを与え続けるけれど」 この頃は既にワインのデキャンタは空になっていました。酔いはすっかり、私の決め事を奪い去っていました。目の前に在る美しい顔、そこから生まれる美しい言葉。全てに私は、心奪われていたのです。それでも何かが私を恐れさせていました。私は何も答えず、少し微笑んで外の雑踏を見下ろしました。 「あの人」は苦笑混じりのため息をついて 「まだ終電まで充分、時間があるね。もう少しだけ俺と居てくれると思っていいかな」 と言って、チェックを済ませると最初と同じように優しいエスコートで私をそこから連れ出しました。 まだ夕刻のIの街は人の波が絶えず、すっかり酔っていた私は少し、そこに紛れるのを躊躇いました。「あの人」はそれを見ていたのかタクシーを停め、私を先に乗せて自分が乗り込むと、Gの街へ行くよう運転手に告げました。車の揺れが心地良くウトウトとしている私に「あの人」は 「飲ませすぎてしまったね。着いたら起こすから眠っていなよ」 と言って髪を優しく撫でました。 私は夢の中で「あの人」に口付けられていました。 |
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早朝届いた「あの人」からのメールに、私は 『時間が取れたら食事でも』 と返信しました。通常、週末の二日間は恋人との逢瀬を予定しているので、これを変更する事はあり得ない、つまり私は永遠に「あの人」に「許す」事はしないはずだ、と自信があったからです。 その週はいつもより「あの人」が私の身体を気遣うメールが多く、煩雑に過ぎていく時間の合間にそれを読んではなるべく冷たいあしらいを意識的にしていました。 金曜日の事でした。 恋人の身内に不幸が起きたために週末に逢う事が出来なくなったのです。恋人はしきりに私の不貞を案じていましたが、この時に於いて私は決してそんな事はすまいと決めていましたのでその懸念を軽く、なるべく明るく振り払ってやっていました。 そして同じ金曜の夜、「あの人」から電話がありました。 「明日午後3時に、I駅の東口で待っているから」 「終電のある時間までにしてね」 「それは君には出来ないよ。自信がないなら来るのをやめたらいい」 今までに無い強い口調で、反語によって命令するように私にそれを言ってきました。その態度が気に食わなかった私はつい、 「いいわよ、そんな軽い女だと思ってなさいよ。明日も明後日も永遠に、あなたが思うようなことにはならないから」 という言葉を吐いてしまいました。「あの人」は笑いながら 「面白い人だね。ますます気に入ったよ」 と言い、一方的に電話を切ったのです。 翌日の午後3時、私はI駅の東口で「あの人」を待ちました。あれほどに「あの人」との待ち合わせを躊躇していた私が、時間よりずっと早く場所へと向かったのです。そしてなんていうことでしょう、何時の間にか私は「あの人」が現れるのを「待って」いました。 ところが3時を15分過ぎても、20分過ぎても、「あの人」は現れません。 30分になって私は、電話をしました。 「今、どこにいるの?ずっと待ってるんだけれど?」 「あの人」が電話に出しな、つっけんどんにそう言うと、 「ほら、やっぱり君は僕を待ってる。会いたくない人が待ち合わせに遅れたりすれば、普通は帰るに決まってる」 「じゃあ帰るわよ」 「そんなこと、言わないで」 最後の言葉は受話器を通さず、すぐ耳元で聞こえました。後ろから突然肩を抱いて、「あの人」は私の耳に口付けました。私は振り返ることも出来ずにただ 「こんな事、して。本当に帰るんだから」 とだけしか言えませんでした。「あの人」は肩から手を外すと今度は強引に腕を掴み 「美味しいパスタ屋があるんだ。ゆっくり話そう」 と言って私を駅の喧騒から街中の喧騒へと引きずり出しました。 腕を引かれて歩くうちに私は自信がなくなってきました。あれほどに決めていた「許さない」という強い思いですら、「あの人」の強引な導きによって砕けてしまいそうでした。そうして「あの人」の横顔を見ていると、自分がもはやここから逃げる事はできないという錯覚にすら陥るのです。 怖い。私は自分自身が、怖くなっていました。 |
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恋なのか?情なのか?分からないままで関係がズルズルと深みに嵌っていってしまう事はありませんか? 今の恋人に少しだけ不満があって、そんな時に「あの人」に出会いました。。 話していてもメールでも、私の苦痛を一切否定せずに受け入れ、私の主張を全て認めてくれるような人なのです。 初めて二人で食事をした時に、少しお酒を飲んでいた所為もあったのか「あの人」はしきりに 「帰したくない」 と言いました。 私は其れを、少し心地良い耳障りの言葉として受け止めて、 「帰らなければならないの」 と余裕を持って答えていた気がします。 端正で少し翳のあるその顔立ちは、しかし自分は完全に美しいという自信を覗かせていました。私は其れに目を奪われながらも、その自信が気に入りませんでした。まだ気持ちの分があると言う事を知っていたので隠す事も無く 「彼とこの後待ち合わせているからもうダメよ」 と答えたのです。 すると「あの人」はそれまでの弱弱しく儚い口調から一変した、冷たい悪い男の声となり 「君はそのうち、その彼なんかより僕を好きになるよ。今日別れた瞬間から、僕についてこなかったことを後悔するはずだ」 と言い放ったのです。 私はその言葉をその時は焦る男の繋ぎとめる手段だとしてしか考えていませんでした。そうして会計で「あの人」の食事代を一緒に支払い、腕を引いて引き止めるのを振り払うようにして恋人との待ち合わせに向かったのです。 さて、私の恋人は人の目を気にしない性格ですから、会うなり抱き締め、口付けられました。今ではもう当たり前になっているこの「儀式」を先ほどの余韻と共に味わい、軽い眩暈がするようなきつい抱擁に酔いしれていました。 咽るような口付けから解放されて気付くと、携帯電話にメールが届いて(「あの人」から)いました。 『妬けるね。キスの相手が僕だと想像してくれていたらいいのに』 このとき私は、「あの人」が自分と恋人の口付けを目撃したという事、自分が「あの人」を苦しめたということに想像以上の快感を覚えました。「あの人」は私と恋人の口付けを見て、恋人を自分の姿に摩り替えただろうか?帰宅してから果たして、私のことを考えて嫉妬に苦しむのだろうか?と考えるだけである種性的な心地良さまで感じていたのです。 その晩私は恋人の腕の中で、諮らずも「あの人」の匂いを重ねました。 「あの人」から 『来週末は両日、僕のために時間を作ってよ』 というメールが届いたのは、明朝午前四時の事でした。「あの人」は「きちんと」嫉妬していました。そのメールを私がどんなに良い気分で読んだことか!嫉妬する「あの人」を想像しながら、私は初めて自分から恋人の身体を求めました。 |