「ぢ」の日記帳
2003年の日記


11月07日(金) 16:57:22

相手を慮って身を潜める愛というものもあるということ知っていますか?

すべて「自分が自分が」で、相手のことを考えているつもりでも
所詮相手という名の鏡に写る自分を愛しているに過ぎないんですよ
真実の愛というものは、相手のために自分が何ができるか
自分は何を与えられるだろう、どんな力になれるだろうということだと思います

男性にとって愛とは卑屈で、惨めで、みっともないものです
それが理解できない野郎は所詮、自分のちんぽが好きなだけ

男性の愛情の度合いとは相手のためにどこまで自分を崩せるか
どこまで捨てれるか、だと思います
それも瞬時に!

極端なことを言えば、真実の愛とはその女性の求めがあらば
瞬時に自分の持てるものを捨て、その女性を抱えて走れるかどうかなんだと思う

































おお、まだ見ぬ我がハニーよ!
君はどこでなにをしているんだ、ジュテーム!!




11月06日(木) 16:28:48

人は誰しも最初は知らない
故に知らないと言うことは、恥ず事ではないし
またそれは知るという喜びを我々にもたらしてくれる
その喜びは人生に彩りを添えるものであり
また人生を味わい深いものにしてくれる最上のスパイスである

胸に手を当てて思い出してみよう
我々は必ずやその薄っぺらい胸の中に秘めている事が
ひとつやふたつはあるはずである

虚勢は幼稚な自尊心を満たしてくれるが
より高みへと昇る梯子を外しているという事に気付くべきである

知らないことに因る失敗は、ほんのりとした苦味を
人生に添えるが、それを語ることのできる人は大人である
成功ばかりの人生があり得ないように、失敗ばかりの人生もあり得ない
生きるために、誰もがあがいているのだ


言うまでもないが、私は大人である
もちろんエレガントな大人である私は
なんら躊躇することなく皆さんに、若かりし日の失敗などを語ることができる

when I was young

こう切り出しはじめる、苦味走った私の大人な横顔に
幾人もの女性が心を奪われたであろうことは想像に難くない


では語ろうか
































初体験の時にどこがどこだかわからずに指を突っ込んで
そこがアナルだと指摘された時の恥ずかしさは、私に以下の諺を想起させた











































「前門の虎、肛門の狼」



11月04日(火) 15:08:21

今日は何故私が悪所へ行くのか
また悪所に何を見いだしているかを述べよう
己について述べ、そして見つめることで
また何かが変わるかも知れないと言うのは
それはまた人生の愉悦でもある

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

私が悪所にて向き合う女性に要求する最重要ポイント
は視覚的に美しいと言うことである
無論其れは、顔面的に、若しくは肉体的にである

想像してみて欲しい

モネやルノアール等の名画を見ながら採る食事と、ギ
ニーピッグやクソガキがトンネルに描いたようなグラ
フィティーを見ながら採る食事、はたしてどちらがよ
り美味しく採れるだろうか
況わんや、美を見ながら採る食事は格別である
(個人によっては美の基準が異なるので、上記例はひ
っくり返してお考え頂いても可である)


美形の女性にチロ・フェッラーラされながら、私のエ
レクトスティックを懸命にほおばる為にその美しい尊
顔が歪むを見ながら、私の脳内にはワグナーの旋律が
厳かにそして静かに流れるのである

そしてクライマックス。。。

旋律の崩壊と共に、目の前でティッシュを口にあてが
う女性を目にしながら私は人生の儚さと、無限の宇宙
を感じずにはいられないのだ
人はどこから来て、そしてどこへ行くのだろうか
かように思索的になるのである


美の追求とは「創造と破壊」を伴う、実に罪深い行為
なのだ
そこに男性的なリビドーがエッセンスとして配された
とき、私の足は自然と悪所に向かう
それはある意味では美への飽くなき探求心とも言える
であろう、いや言わせろ
そしてそれは人類の起源、いや未知なる宇宙への探求
とも言えるであろう























そういった意味では ω←コレは宇宙のモトである