「ぢ」の日記帳
2003年の日記


10月31日(金) 13:45:54

感情に任せて行動する
この事について皆さんは如何様にお考えになるだろうか?
イメージしてみてください

例えば、怒りという感情に任せて行動するのはどうですか?
一般的にはあまり芳しくないとされるのではないでしょうか
では、悲しみという感情に任せて行動するのはどうでしょう
これも推奨される行動ではないと思われます



では恋愛感情に任せて行動する
これはどうでしょうか?

おや? なんだか妙ですね
否定的な香りがしないですね
同じ人間のいち感情なんですけどね

ネガティブであろうともポジティブであろうとも、
人間がその感情を律しきれていないという事は
恥ずべき事だと私は思います

女にフられたからといってガンにでもなりますか?
彼氏に捨てられたからといって、貴方の人生は打ち止めになりますか?
いや、むしろ君の人生は恋愛という単色でしか彩られていないのですか?

人生というものはこの世の中と同じく、ありとあらゆる色彩で
彩られているんですよ
人間として人を好きになるということは素晴らしいことです
しかし、それに溺するということは見苦しいことです

酒と一緒です
適度に嗜む楽しむ分には、高揚した気持ちや陶酔感が味わえて
非常に有用なものだと思います
しかし、溺するとそれは害悪以外の何物でもありません

恋愛とは貴方の人生にとっては、あくまでもオプションでしかないのです
チャリンコについてるベルみたいなものです

チリーン♪と鳴らしてりゃいいんですよ









。。。いや、別に私がひとりものだからって
ひがんでこういうこと書いてるんじゃないからな
違うからな、わかったか?







































ウワーン  



10月29日(水) 18:06:01

風俗に逝く男の人なんて破廉恥・最低・クズ!とか
差し障りのない罵声を浴びそうですが、私は風俗が
大好きなんです、ええ好きです。
あの殺伐とした雰囲気や、抜くか抜かれるかという
えも言えぬ緊張感が、私の脳になんかの汁を分泌さ
せるんですよ。
そんな汁、出してんじゃねぇよ、ボケ!とか言われ
そうですが、まぁいいじゃないですか。
先日も逝ったんですよ、ヘルスに。
そしたら新人さんがついたわけですよ、新人さん。
もうね、ぎこちないったらありゃしないんですよ
歯が当たるとかそういうレベルの話じゃないわけで
すよ、歯でしごいてるといった風情なわけですよ。
当然、私は紳士ですから、もういいよ、ありがとう
とか言ってストッピングですよ、自己保全ですよ。
でも、この子よく見たら初々しいわけでして、私と
してみれば少々萌えなんですよね。
そこでお話などを少々したのですが、何を勘違いし
たのか知りませんが、唐突に「彼女いるんですか」
とか聞かれたわけですよ。
「いないですよ」と答えたら「付き合ってくれませ
んか」と来やがったわけでして、以前にも新人さん
に同じ様な事言われたなとか少々思い出に浸りつつ
も、「考えておくよ」とダンディー汁溢れる回答を
しましたよ。
そしたら豹変なわけですよ、おっ母さん。
「なんで?私じゃダメなの?」「教えてよ!」とか
もうね、例えればお腹いっぱいだという客の口に、
饅頭を詰め込むようなマネをするわけですよ。
ダンディー汁溢れる回答も用法を誤ると、副作用が
あると勉強になりましたね。

え?それからどうなったかって?
端的に申し上げますとね、私、その店の経営の方と
懇意にしておりまして新人が入ったからどんな感じ
かチェックしてきてくれと依頼されての無料入店だ
ったわけなんですよ。
無料に釣られたのか?と問われたらノンと答えるの
が私のサガでして、事実その方に少々の義理があり
まして断りづらかったというのが真相でございます
でありますので、謝辞を述べながらそそくさと個室
を後にしたのちに、経営の方に「ありゃあ、使いも
んにならんでよ」と至極冷静な意見を陳述させて頂
きました(笑)
折角の萌え系の子だったんですが、君とわ別の店で
出会いたかったな、というオチがつきましたとさ

(゚д゚)チャンチャン!



10月28日(火) 14:39:42

そんな事を考えながら私は繁華街を歩いていた
肌寒くなってきた繁華街は、しかし嬌声に満ちていた
景気が悪いと囁かれて久しいが、実際はそんなものだ

「マサージイカガデツカー」
「オニサン、マサージキモチイイヨ」



。。。。我が街も国際化が押し進んでいるようだ


そんなことはどうでもいいのだが、今日はとある誘いを受けて
私は繁華街に足を運んでいた
誘いがなくても繁華街に逝ってるんじゃないのか?
という指摘は聞こえない方向で

その誘いとは私に興味を抱いたらしい女性からのオファーであった
本来ならば見ず知らずのアカの他人のオファーなど一蹴するのが常であったが
知人の知人という微妙なラインからのオファーであった為、受けたのであった
知人曰く、「米倉涼子似のいい子」らしいのだが
そんな風評などなんのアテにもならないことは私は実体験を以て知っていた

以前、自称「松島ななこ」と対面したことがあったのだが
その生物は、どう贔屓目に見ても「お多福」にしか見えなかった
決して容貌のみで人を判断する愚を犯すつもりはないのだが
それは、例えば私が「木村拓哉」を自称するのと同じ様なかほりがする

即ち「ギルティー」だということだ
人は生まれながらにして罪を得ている生き物である
原罪を抱える私は、目を閉じればゴルゴダの丘に向かう男のやつれた
容貌が否応なく目に浮かぶ

罪が罪なのではない
罪を償うことが重要なのであり、またその悔いる心が尊いのである
原罪とは我々を包括するものであり、決して逃れることはできない
それと向き合う事が大事なのであり、決して背を向けてはならないのである
己の恥ず行為を敢えて為さねばならないのが人が人である証なのだ
そう、排泄行為とはまさにその極みであると言えよう
(ごく一部の特殊な性癖をお持ちの方々を除く)

100嫌いということは、100好きということであり
氏にたいと叫ぶことは、生きたいと叫ぶことと同義なのである















。。。とここまで読み、上記の米倉涼子はどうなったか気になった人がいると思う


簡潔に結論から述べよう

価値観の相違とは甚だしい視覚的相違をもたらすものだと知った夜に
一人で飲むジンジャーエールは身体と心に沁みる