「ゴリヲ」の日記帳 |
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今日はなんとなく上野駅に行った。 で、なんとなく旅を思った。 このゴールデンウィークに旅行に行く人は多い。 旅先で日頃のストレスを発散といきたいのだろう。 ただ、ほんの2〜3日のショートステイで旅などと言えるのだろうか? 旅先でセブンイレブンに入ったり、いつもと同じコカ・コーラなどを飲んでいてストレスが発散できるのだろうか?旅「ごっこ」でしかないのではないか。 ちょうど昨日見た芝居のなかで印象的なせりふがあった。正確ではないが、要はこんなせりふだ。 「墓の上で生まれ、墓の上で暮らし、墓の上で性交し、墓の上で子を産み、墓の上で死に・・・」 「墓の上でセックスするだなんて、ぞーっとしちゃうよね」 つまりはそういうことだ。孫悟空がお釈迦さまの手から抜け出せなかったように、たぶん、俺らは墓の上から抜け出せない。 本当の意味での旅なんてきっとできやしない。予定調和の、決まりきった一日を漫然と暮らすほかないのだ。 養老孟司先生の『バカの壁』という本を読んだのだが、そこにも同様のことが書いてあった。 要は、こういうことだ。 個性重視だとかいうけれど、誰が個性なんて望んでいるのだろうか? 私の知っている精神病患者は、毎日自分の糞尿で壁に絵を描く。それが現代美術家なら、画期的な描画法としてもてはやされるかもしれない。 けれども、医者としてそんなことを毎日やられたらたまらない。 ・・・これがごく普通の感性だ。彼の感性を受け入れようなどとは誰も思わないし、彼の個性を尊重しようとも思わない。 ある、自分たちが想定した枠内において発揮されるものが望まれる「個性」であって、本当の意味で個々人がただひとつ持つ個性などを誰も望んでいないのである。 ・・・と意訳してみたわけだが、この2つから思うのは、たとえば個性や自由などというものは、個人としても社会としても望んでいないのではないかということである。 ・・・窒息するほどきつく締めているわけではない。 ヒトは、きっと首輪をはめられて生きていく事に充足感を得るのだろう。 誰かが首輪をはめたんじゃない。自分で首輪を求めていったのである。 そんなことを思いつつ、今日はチケットショップで500円にて購入した「ヤクルト×ベイスターズ」戦を観戦。途中で寒くて帰った。 |
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また落ちてしまった。書こうと思ってるんだが、どうにも時間がない。 まあ、これから少々まとめて書こう。 今日は、友人の芝居を見に行った。 9.11にインスパイアされて書いたホンだというのだが、まったく意味がわからなかった。 いつも難解な芝居なわけだが、特に今回は刺激的な話題であったので、ちょいとホンのなかにあるメッセージを読み取ろうかと思ったんだが、まあ、無意味だったね。 全体の雰囲気としてどうなのか、というところなんだと思うが、それもいいとは思わなかったな・・・。アングラの本領発揮というところなのかもしれないが、どうにも馴染めなかった。 観劇後、結局打ち上げに参加する。おいしいんだよな。すき焼き鍋とかさ・・・。 そんなわけで、なかなか楽しかった。 |
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今日は、女友達と新宿ゴールデン街で飲んだ後、二丁目のレズバーに行った。 女友達が「カラオケ歌いたい」「でもボックスはイヤ」とかぬかすからで、店店から歌声があふれ出す街、新宿二丁目に繰り出したわけだ。 二丁目には、ついおとといも出向いており−そん時は単にカフェでメシを食ってたわけだが−その際に、壮絶な「レズビアン大戦争」を目の当たりにし、オンナ同士の争いって酷いな、と痛感していたわけだ。 で、その店の入り口にかかっていたのが、「男の子は、最初は女の子同伴でね♥」ってメッセージ。 せっかくオンナと一緒にいるし、ここはぜひ一度禁断の花園(?)をのぞいてみるか!というわけで乗り込んでみたのだった。 以前も日記に書いたと思うが、新宿二丁目で男女連れ立って歩いているのはマイノリティー。はっきり言えば変態なわけです。 まして、その筋の方だけが集う店に足を踏み入れ、受け入れられようわけもなし。目立たぬよう隅っこでこそっと観察させていただこうという面持ちで入店したわけだ。 結果・・・。 ま、自分が石ころぼうしをかぶっているかのような気になったね。 無視。黙殺。そりゃ俺が竹之内豊みたいな男だったらどうかはわからぬが、俺がいようがいまいがお構いなし。 「私はネコ」「えー、タチなの?見えない」「愛してるよ」「Chu----」・・・・・・ もうね、普段抑圧されている感情がほとばしるからだろうか? 店のあちこちでKissエーーンドTouch。TouchエーーンドKissの嵐。お店の人いわく「今日は休み前だから、はじけちゃってるね」とのことだが、まあもんのすごい欲望の世界でございました。 もう、そのパワーに押されて水割り一杯で退散。 「またいらしてね」 ゴメンナサイ、もう勘弁・・・ |
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ぶっちゃけ、今日は初体験のソフトSMとかいう風俗店に行ってみた。 すんごい綺麗な人だった(店の写真を見ると、他にもすごい美人ぞろいだった)が、どうにも俺が選んだ「ソフトM」とかいうコースはイマイチだった。 ここのところ、どーにもセックスに集中できず、途中でやる気を失ってしまう・飽きちゃう傾向にあるため、受身の姿勢で性の新境地が開けるかと思ったんだが、やっぱノリが合わなかった。 「お姉さんがエッチなことしてあげる」とか言われても、心の大部分を「笑い」が支配しちゃってマジメに楽しめない。 いかんいかん。マジメにエロを楽しまないとな・・・。 |
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仕事のパートナーが変わるというのは厄介なものだ。 ようやく共通理解が可能となった頃にパートナーが変わると、またはじめからやり直しだ。 コンセプチュアルな部分の共有は比較的容易にできる。が、コンセプトを実作業に 落とし込むところで毎度苦労する。 お互いの能力の程度がわからない。向き不向きもわからない。趣味嗜好もわからない・・・。 要は、作業が個人レベルに落とし込まれたとき、その個人像をつかむことに最も腐心するのだ。 人は、自分の仕事のスタイルをなかなか曲げない。 しかしながら、曲げてもらわねばならない用件も山のようにある。殊に、企業ドメスティックな話題を取り扱う場合には、そのやり方に従ってもらわざるを得ないケースが多い。 個々人の能力や感性を生かす形で、従うべきところは従ってもらう。 この折り合いの付け方は非常に難しい。 それぞれのプライドを尊重しつつ、ある意味で否定し、モチベーションを維持してもらう。 ま、とにかくメンドくさい。 こんなメンドくさいことをここ数年で何度も経験させられた。ウエのご意向でね。 もう放棄しようかな・・・。そんなことを思ったりする。 |
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日比谷シャンテに『ヘヴン』を見に行った。 1996年に亡くなったポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキの遺稿をもとにつくられたものだ。 うーん・・・ イマイチだね。何だか時代がよくわからない。 明らかに設定は現代なのだが「police」を「憲兵隊」といったり、その「憲兵」たちが行う裁判も前時代的である。 美しく仕上がっているとは、まあまあ思うが、中途半端な感は否めない。 自らの創作意識の発露からではなく、他者(死者)へのリスペクトから創作を行うと、どうしても作品世界を純粋に突き詰めることが出来なくなってしまう。 とりわけ、それが血を分けた肉親であったり、自分にとっての絶対的な存在でない限り、その創作意図は濁ってしまう。 たぶんこれをキェシロフスキが撮ったら、きっともう少し気高いものになるだろう。 また、これがキェシロフスキの生前に、誰かの手によって撮られたのであれば、もっとスリリングな展開になっていただろう。 残念だな。。。 |
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父親が上京してきた。で、弟の引越し先の下見と契約の段取りを行ってきた。そんでもって弟とほんの少し一緒に住むこととなるので、このゴールデンウィークは引越しだ。 イマイチ気に入らない土地だが、まあ短い間だ。 早速、新しい住まい付近で格闘技関係のジムを検索してみた。 極真の数見道場があるようなので、そこにしようかな?もしくは、エンセンのやってるジムか・・・。 とりあえず近所のボクシングジムはどうも気に入らないので、はじめて総合系にチャレンジしてみようかという気になっている。 あとは、何やったっけ。『ボーリング・フォー・コロンバイン』を見てきた(2回目)な。そんなところ。 |
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わかってないヤツに何も言われたくない そんなことを言うヤツがいるが、これは甘ったれた妄言である。 そもそもこの発言は、他人が自分を「わかってくれる」ことを期待した言葉だ。 本質的に、どこまでいっても他人は他人、わかりうるはずはないのだ。 こういうヤツに限って、他人の甘い言葉にコロっと騙され、何千万もする壺を買っちゃったりするのだ。 自他の別をしっかりと意識しなければいけない。 そもそもわかっていればいいのか、ということもある。 「わかる」ということが、ある価値を生み出すことは否定しない。 けれども「わかる」ことで失うものも多い。 わからなくてもいいことに関しては、わからないまま通す、という選択肢をしっかりと持つ必要があると俺は思っている。 (「わかる」よりも「知る」の方がこの文では適当ですが、そのまま通します) 俺は一生、人をぶっ殺した兵士の気持ちをわかりたくないし、国家を略奪され、子を失った親の気持ちをわかりたくない。 俺個人の体験に立ち返っても、わからなければよかった、と思うことのどれだけ多いことか。 何でもかんでも得たいと願う気持ちは、ある転機をもって絶望しか拾い集めることができなくなる危険を孕んでいる。 わからないままでいる。わからない、と胸を張って言う。そんな勇気が必要だと思う。 |
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何とか原稿を仕上げることができた。 眠さをこらえて一日何とか勤め上げると、今日は早々に帰ることにした。 ・・・が 何だろう?オタクとはまったく逆の出ずっぱり病がうずき、 こんなに早いんだったら、映画でも見るかと思い、恵比寿ガーデンプレイスで 『過去のない男』という映画を見に行った。 そんでもって、寝たね。ずーと寝てた。 映画も映画で、シュールレアリズムでワケわからん出来なのが悪い。 必死で見ようと思うのだが、途切れ途切れで見てもまったく意味わからん。 そんで映画終わって、帰ろうかなと思ったんだがやっぱり帰るのがイヤで、 またもやはるな愛の店に行った。一日二回。ビョーキとしか言いようがない。 つかれた・・・ |
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またまたはるな愛の店に行った。 店の前を通ると、聖子ちゃんコンサート真っ最中のようなので、店の周辺をひと回りしてから再度訪れたのだが、まだコンサートは盛り上がったまま。 また一回りして(俺っていいヤツだな)、来ると、少々静かだったので店に入ると、単に曲と曲の合間だっただけ。次の曲の準備をしてはった。 そうなると、注文ははるな愛が一曲歌い終わってから、となる。ちょうど「赤いスイートピー」だったかな?その曲を歌い終わってから俺は酒を頼んだ。 作り終わるとはるな愛はすぐに曲に入る。 思うに、その時点で聖子ちゃんコンサートは約3〜40分経っていただろう。 その後、聖子ちゃんからあややに移り、店にいた客みんなで「ね〜え」を歌い踊る大騒動ぶり。 深夜3時過ぎまで、店中大騒ぎの一晩だった。 最近通い詰めている俺だが、こんなに騒いだのは初めてだ。 たぶんはるな愛は3時間ぐらい踊りっぱなし。よーやるわ。まったく。 ・・・という俺も、別に会社が休みなわけでも何でもなく、朝から出勤。つーか、寝ずに朝4時出勤で原稿書きしてた。 バカだよなー、まったく。 |
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すげえな、松井。 やっぱ器ってあるんだなあ。過剰な報道うんぬんは別として、やるべき所でビシッとキメることができるのは並じゃないよな。ホント、すげえ。 で、今日は呉智英の『危険な思想家』って本を読んだ。 かなり笑ったね。とことん人をコキ下ろしまくってんだよね、このオヤジ。 ・・・って書いてたところに、報道特番が入った。 サダムの像を引き倒しているところが映されたわけだが、正直、虫唾が走ったね。 暴挙この上ない。 アルカイダがアジャンタの石仏を爆破した時、全世界は何といったのか? 野蛮極まりない、愚かな行動だと言ったのではないか? ロープをかけ、装甲車で引き倒す行為のどこに気高い(野蛮でない)、優れた(愚かでない)民主主義的思想が見られるだろうか? 市民がロープをかけたのではない。自主的に崩したのではない。アメリカの暴力がサダムの像を破壊した。 施政者となりたいヤツら、独裁をめざすヤツら、人民の上に君臨したいヤツらにとって偶像支配を否定するのは当然のこと。 アジャンタの石仏には歴史的価値がある。しかしサダムの像にはない。そんな言い草は間違っている。 どちらも、その時の体制にそぐわないものは徹底的に排除される。暴力的に、凶気に満ち溢れた行動をもって・・・。 要は、アルカイダもアメリカも何ら変わりないということだ。 暴力をもって君臨をめざす、人権を無視した集団であるとしか言いようがない。 アメリカ・・・乱暴狼藉を働くものよ。そして殺人者よ。 イラクの油田はさしあげます。そして、上納金(復興資金)は払いますから、もう暴れないでください。お金が欲しかったら言ってください。僕も年間50万円くらいだったら払えますし、日本政府が国債を発行して、お金(先送りの借金)を作って地球上のショバ代を払うことでしょう。 ですから、お願いです。僕らを殺さないでください。 |
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フセイン親子爆死という文字が踊る夕刊紙を購入した。 もはや世界の常識だが、報道内容(見出し)を信じるわけもないのだが、 記事を読んでいて愕然とした。 アメリカ軍が「フセイン親子が潜伏している」と読んだ住宅地(住宅地ですよ、住宅地)に 「バンカーバスター」を4発打ち込んだそうだ。 で、市民の被害者が12人だか何だか出た、って書いてあったわけだ。 「12人」って書いてあったかどうかは、記事を読んだ瞬間にアホらしくなって エロ3行記事に走ったため正確じゃないが、とにかくあきれるほど少ない人数だった。 これをそのまま垂れ流す、ってのはどうなんだろうね。思考停止しているとしか言いようがないでしょう。 嘘を嘘だとわかりつつマスに流すのは犯罪行為だと思うんだがね。どうだろうか? まあ、これをもって「マスメディアが信じられなくなった」「何を信じていいの?」 なんていうつもりはない。 そんなことをいうヤツには「お前は30代の処女か?」と聞いてやりたい。 「信じる」なんてありえないだろ。 まあ、そこまで厭世的な考えにならずとも、マスメディアが流すモノに「真実」なんてありえないのだ。 芥川龍之介の『藪の中』ではないが、真実とはそれぞれの立場、見かたによってまったく違う。 マスメディアはマスメディアそのもの自体の単なる一意見であり、一見解である。 それはそれ、と割り切る姿勢が欠かせない。 しかしながら、マスメディアがマスメディアである意義は、紛れもない「事実」を映し出すことができる、ということだ。 で、今提示されている「事実」とは何かといえば、たとえば死者の数ではない。 ウダイやクサイの残虐さでもないし、イラクで戦争が行われている、ということですらない。 ただひとつ、人がぶっ殺されてる、ってだけだ。 誰が死のうが生きようが関係ない、っていうのもひとつの見識。 バクダッドで何人死のうが、俺の五体はどこも痛まない。 しかし、俺は(アメリカ嫌いってこともあるが)、 アメリカが「大量破壊兵器」でイラクを破壊し尽くしてるのには腹立たしい思いを禁じえない。 「イラクの人民のため」とはよく言ったもんだ。 ゴタゴタの間で忘れられているが、ラムズフェルドの鬼畜(だったと思う)が「(北朝鮮の危険に対し)日本も核武装すべし」とか言った、内政っつーか独立国家の憲法をまるで無視した能無し発言を聞くにつれ、アメリカこそ悪の枢軸であるという思いを強くしている。 バカなんだからさ、偉そうにすんなよ。 |
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火の鳥は不死鳥であるといわれるが、そうではないと思う。 常に燃え盛る火中にあり、近づく他者を焼き尽くす火の鳥は、生きながらにして死に、 死にながら生を貪る存在である。 要は生死を超越した何者でもない存在である。 崇め奉る他者があったとしても、火の鳥自身のアイデンティティは無価値である。 からっぽ。エンプティ。 火の鳥は空疎な中心にいる。 というわけで、気取るわけではないが、2月、3月と火の鳥のような生活だった。 もっと親しみやすく言えば、火の車、の生活だね。 余裕どころか息つくヒマもありはしない。 映画も芝居も格闘技も何も見ることなく、大した本も読まずに常に火に炙られていたような毎日だった。 で、ほとんど自分自身はからっぽ。ひとつひとつのものごとに判断や創造を加えることができなくなってしまう。そんな状態だった。 ただ単に忙しい、追われてる。ひとつひとつの仕事のクオリティは落ちる。悪循環だ。 いろいろな腹立つことや、もちろん、イラクへの侵略戦争についても書きたいことはあるわけだが、自宅でパソコンに向かう気もおきなかった。 まー、ようやく一段落し、パソコンを立ち上げ、この日記帳にたどりつき、そして日記スレを見てみると。。。 ゴリヲ、たまには書けや、ゴルア の文字が!!!111 いやー、正直な話、嬉しかったね。 生来のひねくれもので、人に「やれ」といわれたものは、一切拒否もしくは。 自分流にねじまげて行ってきたのだが、この言葉は書く気を起こさせたね。 というわけで日記復活。 そんでもって最近起きたことを時間を逆行して書きたいと思う。 |
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(とりあえず、4月7日が4月の初稿になります) 今日はまたはるな愛の店に行った。 おっと、その前に・・・仕事でほんの少し横浜の「こどもの国」に行った。 桜の撮影会があり、その取材だ。それは別に何てこともなかったわけだが、 園内で、長ねぎと大根を持ったおばちゃん(じゃなかったな・・・やっぱり破格に綺麗だったな。。。)を見た。 松坂慶子ですわ。 こないだのヌード写真集のときに、シワの修正費がものすげえかかったとか、あの写真はほとんどCGだとか悪口を聞いたことがあるが、やっぱり破格だね。 あんなキレーなオバチャン、どこにもいないわ。足首もメチャ細いしね・・・。 スゲエな、と思った。 そんでもって、田園都市線で表参道まで出て知り合い(女)と合流し、新宿2丁目のカフェに行った。 その店のすべての客がホモもしくはレズ。異性と一緒にいる、なんていうのはマイノリティ。むしろ変態といえるだろう。 俺自身の趣味の問題は後日書くとして(とりあえず、ホモではないとだけ書いておくが)、このカフェのメシは結構うまいので夕食をとって、その後、新宿ゴールデン街に行った。 フラメンコ好きのマスターがやってる店で、学生時代からたまに行く店だ。 そこでワインとチーズをやって、それからはるな愛の店に行ったのだ。 面白いね、はるな愛。 カウンターで約10席くらいしかない店だが、いつもいっぱい。 今日も俺らのほかは、カップル1組、そして高1と高3の娘たちを連れた親子連れ(!)が4名様1組、そしてはるな愛の家族が来ていた。 もう散々見飽きてる松田聖子とあややのモノマネを今日も見たわけだが、楽しいよね。 俺自身も暗記するぐらい見てるわけだが、それでも楽しい。 嫌な気分をひととき忘れさせてくれる。いや、いいね。はるな愛。 |
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ここ数か月の、ワン・オブ・ザ・ワースト・デイですな。 深夜3時まで会社の引越し作業を行ったあと、昼に起き出し、久々に映画でも見ようかと渋谷に俺は行ったです。はい。 そしたらー、雨がいっぱい降ってー、傘持ってなかったからー、ずいぶんと濡れたですよ。 その後『歓楽通り』っていうパトリ・ルコントの映画を見て、ものすごい感情をゆりうごかされたっス。はっきり言えば、ちと泣いたッス。 んでまあ、もう一本、映画でも見っぺかなと思って、渋谷シネマソサエティ行ったス。 上映開始までちと時間があっからー、マークシティのなかで茶でも飲んべかなと思って、マークシティ行ったス。 そしたらー、しょんべんしたくなってー、しょんべん行ったらー、約10メートルくらい先に懐かしい顔があったス。 それは知り合いの超大金持ちの伯父さんだったんですがー、何か俺はうすら汚いカッコしてたしー、ちょっと会いたくないなと思って、トイレの前でちょっと立ち止まってたです。 そしたらー、ちょっと前まで付き合ってた女がいきなり目の前に現れたッス。 俺ったら反射的に通路脇の自動販売機コーナーに隠れちまったスよ! んで、彼女が目の前を過ぎたんで、その場を立ち去ろうと思ったんですけどー、 女子トイレも混んでるみたいで、すぐ目の前に後ろ姿があるっス。 で、伯父さんもまだちょっと先で立ち話してるっス。 一体どうすっぺ、もの凄いドキドキしたっすけど、このまま自動販売機コーナーにいてもおかしいし、とりあえず、女の前から立ち去ろう!そう思ったス。 それで、急ぎ足で気づかれないように伯父さんの前を早歩きで過ぎ去ったス。 幸い、気づかれなかったスけど、そうすっと、無性に女のことが気になったんスよ。 で、またも物陰に隠れて見ていると・・・ ま、案の定、男とデートだったんスわ・・・。 まあいいんスけどね。もう別れて半年近くなるし。全然いいっス。 でもね、やっぱ、一回隠れちゃった、そして物陰で見ちゃった、って すんごい情けない気分だよねえ・・・。 自業自得で、スンゴイ惨めなウィークエンドにしてもうた・・・。 |