「ゴリヲ」の日記帳 |
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今年も本当にさまざまな人々と出会い、いろいろな勉強が出来た一年だった。 来年も積極的にさまざまな分野にチャレンジして、新しい知己を増やしていきたいと思う。 まずは俳句をやろうかな、などとも思っている。 そして、またボクシングをやりたいな、と思う。 ようやく今年一年で何とかフラットな状態に戻れたと思う。 来年は良い年にしたいものだ。 |
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風邪もひいてるっつうのに、正月休みだっつうのに、会社に行った。 社畜だよな。まったく・・・。 で、フロアに入ったら先客が! 俺の所属している本部の、うーん、何て言ったらいいんだろう・・・お局さま?いやー、そんなに偉そうにはしてないんだけどな・・・。でもまあ、ほぼ定年に近い年齢の女性が来ていたわけです。 彼女の仕事は経理関係の処理業務なので、端末が停止してしまっている休み期間に会社に来てもほぼ仕事にならないはず。 何しにきてるんだろう?などとようすを伺うと、どうやら年末の大掃除をしていたらしい。共有スペースには、今まで飾ってあったクリスマスの飾りが撤去され、松飾りが飾られていた。 いやー、すごいなあと思ったね。やっぱり。社畜だなんだと思っていた自分を反省・・・はしないけど、見習わ・・・ないけど、俺には絶対できないし、そうした配慮が出来る人っていうのはすごいなあと思ったね。 |
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ものすごい風邪をひいた。 今日で仕事納めだというのに、明日から休みだというのに風邪ひいた。 体の節々が痛い。 |
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今年は、知人の5歳になる娘さんにクリスマスプレゼントを送った。 電話で「ありがとね」と言われてとても嬉しかった。 俺は、生来の見栄っ張りということもあり、人にプレゼントをしたりご馳走したりするのが好きだ。 何を送ったら喜ぶかな?どうしたら驚くかななどと考えるのが好きだ。 その機会が今は減ってしまっているのが残念だ。 |
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今日は知り合いのカメラマン(といっても父親より年上の方だ)に連れられて六本木で飲んだ。路地裏のなかなかいい店だった。いちげんさんでは絶対にたどり着くことが出来ないであろう店だ。カウンターの向こうが呉服屋の帳場みたいになっており、いろいろな「汁」がこの店の看板商品。「汁」とは焼蛤であったりとろろであったり、雑煮であったりと多彩な椀が楽しめるわけだ。 いろいろな話を聞いた。大阪万博の際に、市川崑監督と仕事をした話であったり、はたまた軍艦「高雄」に乗っていた叔父さんの話であったり。本当に多岐にわたる、含蓄のある話だった。そしてまた、自分自身も思うことをいろいろと話させていただいた。 あれこれ話しているうちに、なんと1時近くになっていた。本当にハッピーな感じだった。俺のナマイキな話にも耳を傾けてくれ、老いてなお衰えない創作への意欲も話してくれた。 また飲みに連れて行ってください! |
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クリスマスイブは単身赴任で東京にいる悪友と酒でも飲むかと思ってケータイに電話してたんだが出やしない。浮気できるようなタマじゃないので、職場のヤツらと飲みにでもいったんだろうか? というわけで、飲み屋にでも持っていって食おうと思っていたシュトーレンとクッキーが浮いてしまった。 で、家に帰ることにしたのだが、途中のセブンイレブンで(ワルノリして)シャンメリーwを買ってひとりクリスマスを盛り上げることにした。 といいつつ、生来のメンドくさがりなので、シュトーレンは「一本食い」、シャンメリーは「ラッパ飲み」でダラダラとやった。クリスマスイブも何もあったもんじゃない。かなり胃にもたれた。 シュトーレンの一本食いはやめたほうがいい、と痛感したクリスマスイブだった。 |
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今日はヘルスに行った。今月は2回目か・・・・・・ ・・・ずいぶん減ったもんだ(なんつって) 実は2年ぶりに馴染みの子を指名した。 渋谷から池袋に店を移って以来、ずっと行っていなかったのだが、以前は結構通ったものだった。 風俗嬢は天使だ何だと、生島某が最初に言ったのかもしれぬが、その、馴染みの子はまさしく天使のような子である。 かつてオンナと別れたばかりの俺に「頑張るんだよ。元気を出すんだよ。自信を持っていいんだよ」と言っていつも明るく、そして愛情をもって励ましてくれた。 風俗嬢の愛情なんて、と思うかもしれない。俺もいい年だから、商売上のテクニックとして相手に施す愛情とそうではないものは、一応、わかる。 とはいえ、彼女が俺を愛しているだなんて露とも思わない。彼女は、たぶん、世の男性すべてに愛情を供給しているのだ。 彼女のいなくなった父親のこと、母親のこと、姉妹のこと。いろいろなことを聞いたが、平凡な暮らしをしている俺らにしてみれば、絶望の淵に追いやられるような数奇な運命をたどっている。 それでもいつも彼女は笑顔で、世の愚かな男たちに元気を与えてくれる。 彼女と会うといつも幸せな気分になる。 ありがとな。 |
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今日はBOX東中野で上映中の『アレクセイと泉』という映画を見に行った。 上映後に、監督の本橋成一さんと明治学院大学教授の辻信一さんとのトークショーが予定されており、120人ほど入る劇場は大入り満員。通路に座布団を敷いての鑑賞となった。 『アレクセイと泉』は旧ソビエト連邦のベラルーシ共和国にある「地図から抹消された村」のドキュメンタリー。チェルノブイリ原発から180kmの距離にあるこの村には、政府からの移住勧告に従わない55人の老人たちと1人の若者が住んでいる。村には人々の生活を支え続けた「泉」があり、この泉は、土壌や森の木々が放射能で汚染されるなか、放射能汚染が一切検知されない清純な水を供給し続けている。 年老いた住人たちは、いずれ死に、名実ともにこの村は「消えて」いく。 自然(汚染されてはいるが。そしてそれは「人間が」汚染したものだが)と動物と水とともに生きる人々の姿を丹念にとらえた映画である。 今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされているそうだから、そのうち大きな話題となるかもしれない。 上映後のトークショーでも語られていたが、とにかく「スロー」な映画だった。水を飲み、働き、食事を摂り、歌い踊る。そこには余分な欲も、また気負いもない。ヒトが生き、暮らす。もとよりシンプルな生命活動を撮った作品であり『ハリー・ポッター』などとはまったく対極にある映画だった。きっと退屈し眠くなるだろう。事実、俺自身も何度か居眠りした。 しかしながら、生きることそのもの、それも土地とともに。自然とともに。いのちとともに・・・。そんなことを考えさせられる映画であった。 トークショーでは辻さんが、この映画と自著『スロー・イズ・ビューティフル』を絡めて話をしていた。現代は「ファスト」の時代である。衣・食・住のすべて、そして感情においても、時代は「ファスト」である。拙速になってしまっている。この映画の村のように「スロー」な生き方をしていこう、「スロー・ラブ」「スロー・テクノロジー」などを培っていこう、というのが、彼の主張の大筋だと思う。 ただ、この映画を見て思ったのは、決して「スロー・イズ・ビューティフル」ではないんじゃないか、ということだ。1986年に起きたチェルノブイリの惨劇から15年経っても、いまだに森を歩くとガイガーカウンターは鳴り続ける。ヒトの犯した罪に対して、自然の浄化スピードもスローである。スローであることは、短くはかない存在である人間への試練であり、原罪なのではないかと思ったのである。スローに対する憧憬は結構だが、永遠への願望と同様に実現できない欲望なのではないか、とさえ思うのだ。 さらに、本橋さんが10月にイラクに行った際に撮影してきたフイルムの上映会があった。作家の池澤夏樹さんとどっかの雑誌かなんかの企画で行ってきたらしい。12分ほどの短いフイルムだったが、イラクの今を生きる人々の生活が映し出されていた。本橋さんの言葉を紹介しよう。 「僕らは、イラクの子供たち、そして市場に集まる人たちの姿を見てしまった。知ってしまった。だから、死んで欲しくないんだよね」 「子供たちの顔は、可愛がられている顔だなあ、っていうのが良くわかる顔だったんです」 「イラクの人たちに話を聞くと『フセインは嫌いだけど、今、フセインを支持しなかったら自分の国がなくなっちゃうかもしれない』って言うんですよ」 「イラクの人たちは『アメリカには200年の歴史しかないよね。わが国には6000年の歴史があるんだ。いずれ(アメリカの)彼らにもわかる日がくるだろう』って言うんです」 |
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今日はなぜか胃が痛くてイライラのし通しだった。 先月も一日、眠れなくなるほどの胃痛に襲われ、病院に行ったところ、問答無用で胃カメラを飲まされた。初めて見た胃の内壁はキレイなもんだったのだが、何故なんだろう?今日もまたかなり痛む。 新宿に出て遊ぼうとしていたんだが、すぐに帰ってきてしまった。 小田急のデパ地下に行って人あたりしたんだろうか?年末ということもあってかなりの人出だった。 しかし、贈答用のかまぼこって1万円以上もするんだね!びっくりしたよ! |
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やっぱり中国残留孤児が国を訴えたじゃん。そりゃ頭来るよな。 今日は、モスバーガーに行った。千葉の田舎ゆえ、店員がおばあちゃん。 テリヤキチキンバーガー、ポテトLサイズを頼んだわけだが、 「『てりち』『えるぽ』おーだーはいりました〜」とどう聞いてもひらがな風なんだよね。ユニフォームも厳しいもんがあるし・・・何とかならんかねえ福祉行政・・・。 松井がヤンキースに入ったわけだが、どうなんだろうね? 通用するとかしないとかいろいろ言われているわけだが、やってみなければわからない、っていうのは当然なんだけど、失敗する確率が高いんじゃないかなあ・・・。 言葉はわかんない、メシは違う(ノーパンしゃぶしゃぶも当然ない)、(とりあえず)オンナはいない。日本からぞろぞろぞろぞろお付きの記者連中が行くだろうから、あんまり状況は変わらないのかもしれないけど、家に帰ってから虚しいんじゃないかねえ・・・。 「大活躍」するには厳しい状況だと思うわけだが、契約内容は「大活躍」を期待しての内容なので、そのギャップもどうなるんだろうね? あんまり興味はないんだけどさ・・・ |
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そういや、俺のは全然日記じゃないんで、たまには日記らしく。 今朝、コンビニでおにぎりとか買ったら合計金額が666円だった。 銀行からカネをおろしたら下3桁が666円だった。 ・・・と、どうにもダミアンな1日だった。キリスト教徒でもないのにちょっとヤな気分。 で、未だにWorldChampionFootballをやっているわけだが、さすがに最近は重複カードばっかりで、新規カードの割合が2割くらいに落ちてしまった。こうなると、やっぱり交換でしか種類を増やす方法はないようだ。今日はセルジオ・コンセイソンとロナウドが増えたもののそれ以外はみーんな重複。。。虚しい。 でもなあ・・・ガキやヲタと交換するのは少々ためらっちゃうんだよね。普段はそうじゃないんだけど、どーも「ゲーセン人見知り」って感じで、たまに「交換しませんか」なんて声をかけられてもどぎまぎしちゃうんだよな・・・。 誰か交換してくれないかな? |
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北朝鮮の拉致被害者を見ていると、洗脳とはこういうことなのか、と思う。 ちやほやして、常に注目をし、生活を保障し、「国として守る」といった甘言を与え、腫れ物にさわるような扱いで処遇する。洗脳の常套手段だよな。 そう、わかるだろう。 これは日本がやっていること。日本が必死になって彼らを洗脳しているやり口だ。 森昌子に会わせたり、キャッチボールのシーンを放送したり。放送する際のBGMは何だアレは?皇室アルバムか? かたや未曾有の大不況で、首をくくっている中高年が増えているなかで、ただ単に拉致されていただけのオッサンオバチャンが、就職の斡旋をしてもらったり、タレントに会わせてもらったり、それはおかしいんじゃねえの? (ちょっと中断) (一段落したので継続) 「ただ単に」のところにひっかかる人もいるかもしれないが、日本国内でだって、たまたま交通事故にあって亡くなったり、何かの間違いで破綻をきたすことになってしまった人はいるだろう。そうした人々や遺族に対して「国として」補償するなどということがありえるだろうか?もっと冷酷でシビアな扱いをしているはずだ。 中国残留孤児にしたってそうだ。ドキュメンタリーでやっていたが(鵜呑みにするつもりはないが)帰国しても仕事がなく、やむなく中国へ戻る例もあるそうだ。少なくとも、市役所が「うちに入りませんか」などと言ってきた例など聞いたこともない。 今の日本は苦しいし、厳しいよ。 北朝鮮から帰ってきた人たちと同年代の人は、リストラの恐怖におびえ、必死に生活を縮小しながら頑張っている。 北に比べて、日本がいいのは当たり前だ。愚かな独裁者が君臨し、腐り果てた国家に劣るわけはない。 しかし、拉致被害者が、今感じている「日本」はまったく別のものだ。あれが日本の実情でなどないことは、赤ん坊でもわかるだろう。 驚くべき華やかな一面だけを見せ、日本は素晴らしいよ、と吹き込み、さんざん政治のカードとして利用し、不要となった先には厳しい現実が待っている。 こんなことをやっていて、どこが北朝鮮と違うのだろう?どこが優れた民主主義国家なんだろう? もういい加減にしろ! |
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俺は、解剖学者の養老孟司先生を敬愛している。彼の著作はほぼすべて買って(読んだのは半分ぐらいかな)いる。 著作のうち、南伸坊を生徒に見立てた『解剖学個人授業』というものがある。今は新潮文庫からも出ているから求めやすいと思う。 で、南伸坊が実に鋭い。解剖学というのは、解剖して、各器官に名をつけたらお終いじゃないのか。何を学問するのだろう?というわけだ。 それに対する先生の答えは・・・・・・、著作を読んでみてほしい(というか、俺自身2年ほど前に読んだので、正確に覚えていないのだ)。とにかく、そのようなプリミティブな疑問からわかりやすく人体の構造について学べる本だ。 で、だ。 要は解剖学者なり何なりが、腑分けして名前をつけたものを俺らは甘受しているわけだ。つまり、今では誰もが「胃が痛い」などと言うが、「胃」という名称が決まっていなかった昔においては、(他の部位にしっかり名前がつけられていることを前提に置くが)「ほら、ハラの裏っ側の、こう、何だ?骨と骨の間のあたりの奥っちょのほうがどうもこうもしくしく痛むんだよね」と言うより他なかったわけだ。 こうして名前がつけられることは、合理的な思考と集団社会の形成に大いに役立つ。それぞれの主観に基づいた表現を用いずに、多くの人にほぼ同じイメージを伝達することができるようになるからだ。 しかしながら、こうしてできた言葉によりイメージが限定され、精神的にも肉体的にも呪縛を受けることとなる。 たとえば、だ。病気などはその典型である。抑うつ状態などは多くの人にとって、普通に存在する精神状態だが「うつ病」などと診断をされることにより、病気として自覚し、症状を自分自身で容認することとなる。また、逆に「性同一性障害」などは、こうした病名が公に流布したため、同じような悩みを持つ人々のプラスになったことと思う。妙な言い方だが、自分は、ヒトとして正常な精神活動における性同一性という構造に障害があるため、オカマなのだ、とかね。堂々と(正常な)病気なんです、と言えたわけだ。 それで、プラスとマイナス、どっちが多いのといえば、もう間違いなく、言語道断にマイナスが多い。「ストーカー」などという言葉が、悪意とともに流入したおかげで、たとえば松任谷由実の『まちぶせ』などは、「ストーカー」的な恐ろしい行為のようなニュアンスが出てしまう。「マイナスイオン」などは何の根拠もない粗悪商品をあたかも健康に良い商品であるかのような錯覚を起こさせている。 考えてもみてほしい。 名前がつくもの、それは「元からあるもの」なのだ。過去に何もなければ名前などつくわけがない。 まったく新しい、斬新で、常識を覆すような新しいものなどは生まれないのだ。何かと何かの組み合わせであり、見方をちょっと変えただけの話だ。 ふられたって、何度も何度もアタックしてついに一緒になる。 そんな健気な思いを「ストーカー」の一言で切って捨てるのは間違っている。 いつの時代だって、結局はひとりひとりの意識しだいなのだ。 言葉のイメージに振り回されてはいけない。 ********************************* ちょっと読み返してみたら、 >>プラスとマイナス、どっちが多いのといえば、もう間違いなく、言語道断にマイナスが多い。 という箇所は「現代においては」っていう但し書きをつけないといけないな、と思った。 何も原始時代に戻ろうなどと言うつもりは毛頭ないのでね。 |
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日曜日は友だちの芝居を見に行った。『金玉娘』という芝居だ。 舞台は江戸時代。両性具有に生まれついた女とその仲間たちが、見世物小屋で繰り広げる悲喜劇だ。お茶らけの学生芝居ではない。 結成以来かれこれ30余年を数える劇団ゆえ、本公演はここのところ停滞ぎみ。ベテランの役者たちはうまいんだろうが勢いはない。この作品は、劇団生え抜きの若手作家が初めて書き下ろした作品ゆえ、疾走感ある作品に仕上がっており好感を持った。 月曜日は、会社帰りに『ハリーポッター』を見た。 どうもハリーポッターのような「Born to be HERO」は嫌いなのだ。ウルトラマンレオのように滝に打たれて修行するヒーローもどうかと思うが、ピアース・ブロスナンのような、何だかよくわからないけれども、ヒーローとしての説得力が欲しいものだ。 |
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今日は、深夜に渋谷の居酒屋に行った。 そこに「THE MODS(モッズ)」(知ってますか?)の人たちがライブの打ち上げか何かで来ていた。 一応、ここ http://www.antinos-r.co.jp/mods/mods.html もうかなーりのベテランだ。言われてみれば、名前を聞いたことも、顔もどっかで見たことがある(以前この店で見ただけかも)ような気がする。 で、俺らは淡々と飲んでいたわけだが、カウンターにモッズのファン(20代後半〜30歳代の男3人)がいた。それも、熱狂的な。 彼らは常にモッズの席のほうをちらちら見ている。で、ひそひそ話。 いざモッズご一行様が帰られる、となった時、カウンターの彼らは立ちあがり、体育会のノリで「写真お願いしまっすっ!うっす!」みたいな感じで懇願。無事同じフレームに収まることができると、彼らがタクシーに乗り込むのを、寒空の下、直立不動でお見送り。 店のなかに戻ってくると、その後小一時間に渡ってカンゲキのコメント合戦! 「すげえよな、写真写るとき、ちょっと腰かがめて『俺がこうすりゃ、お前らみんな入るかい』なんて感じで俺のこと見たんだぜ!スゲーよ!スゲー」 「もうありえないことが起こったよ。何十年もファンやってきてよかった!」 と、感極まった言葉の嵐。 俺らはその隣で(´_ゝ`) だって、モッズのメンバー、40過ぎてるんだぜ。確かに同年代ではずば抜けてカッコイイけどさ、40過ぎのツンツンヘアー(聖鬼魔Uみたいな感じ)はツライぜよ! まったく知らん俺らからすると「ヲイヲイ、それはナシでしょ」と突っ込みを入れたくなる感じなんだよな。 カリスマ性なんてものは、カリスマとされる人から発せられるのではなく、それを敬い、崇めたてる人の思い入れが作り上げるものなんだろうな。 もうひとつは、後付けで与えられた権威や勲章によってカリスマ性が作り出されるもの。たとえば田中耕一さんなどは、今、街を歩いていたら、常人とは違うオーラを漂わせているように感じることだろう。 まあそんなもんだな。 |
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中学一年の冬だったと思う。 僕らは深夜に起こされて、祖父母の住む家に向かった。 車で40分ほど走って到着すると、祖父は既に息をひきとっていた。 夕方までしっかりと働き、ゆったりと休息を取っていた折に心筋梗塞を起こし、そのまま帰らぬ人となったのだそうだ。 あっけない最期だった。不幸中の幸いだったのは、闘病の苦しみも、また後遺症の苦しみも味わうことがなかったことだろう。 ものごころがついてから、初めての親族との死に別れだった。俺を可愛がってくれたあの祖父はもういない。悲しかった。けれども何より記憶に残ったのは、葬式にやってきて、酒を呑んで騒いでいた近隣の住人たちだった。なぜ酒を呑むの?なぜ笑うの?俺の心は怒りで打ち震えた。俺はお経を覚えて、必死に唱えた。お坊さんにお経の意味も聞いた。教えてくれなかったけれどね。 翌々月、曾祖母が死んだ。90も過ぎていたし、息子に先立たれた悲しみもあっただろう。後を追うように逝った。 曾祖母はいつも俺に小遣いをくれた。お前は天才だよ。きっと東大に入って、偉い人になれる。そういって、いつも俺を誉め、鼓舞した。 曾祖母の小さな骸を見て、俺は雪の降りしきる町を駆け、裏山に登って叫んだ。 けれども、不思議と涙は出なかった。 悲しい、悲しい、悲しい・・・。それは心のなかで響いていたけれども、どこかでわかっていたのだと思う。 祖父も曾祖母も、いつも俺のそばで守ってくれているんだということを。 その後、俺も、まあ、いろいろなことがあった。かなりひどい交通事故もしたし、いくつかの人生の分岐点もあった。けれども、何とか転落せずに生き長らえているのは、祖父や曾祖母、また父方の祖父母が俺を守ってくれているからに他ならない。 妙な宗教にはまったりしないのも、親族以上に俺を救済してくれる他者がいるはずがない、という揺るぎない思いからだ。 祖父は、足が不自由だった。俺は遊びに行くと、蚊帳の吊ってある寝室に行って土踏まずを踏んであげた。旅行好きだった祖父のお供をするときは、傍らで肩ではなく頭を貸した(背丈のバランスからそうなるのだ)。 きっと今は、不自由だった肉体の縛りから解き放たれ、あちこちを旅していることだろう。 そして、いつまでも見守ってくれている。 |
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今日は、職場の先輩(たち)の結婚披露パーティーがあった。 職場結婚だ。 うげぇ、と思うね。俺の場合は、ONとOFFはきっちりと分けたいと思っているので、職場の友だちと休日に会うのも好きではない。 ウィークデーは職場の友だち、ウィークエンドはそのほか、さまざまな友だちと遊ぶ、というスタイルなので、職場結婚などは鳥肌が立つほどイヤだ。 まあ、本当に好きになれば関係ないのだろうが、その場合は、必ずどちらかが辞めるべきだと思う。 最近は不況のせいか会社を辞めて主婦業に専念する人は少ない。これは、実感のない単なる建前なのかもしれないが、結婚したら女性は家庭に入るべきだと思う。なぜかといえば、会社勤めなどでカネを稼ぐよりも、出産し、家庭を守るほうが重要だからである。 男女同権。これは当然の権利ではあるが、勘違いしてはいけないのは「男女同様」ではないこと。男と女は完全に違う。俺がどんなに頑張ったとしても、出産はできないし、乳は出ない。 たかだか会社勤めでカネを稼ぐことが、ヒトの生涯にとって重要なことではない。確かにカネがあれば、現代においてたいがいの満足を得ることができる。教育にしっかりとカネをかければ、それによって子供の将来に明るい展望を与えることは疑いようのない事実だ。愛があれば、他はいらないなどという考えは愚劣である。ヒトが現代社会で幸福になるには、カネも愛も両方必要だ。 けれども、どちらが重要であるかは・・・。 それぞれの価値を認め、それぞれの仕事を全力でこなすこと。男女は生まれながらにして違う役割を担っていると俺は思う。 |
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今日はこれからセミナーの講師! 40人くらい入ってるよ! 何となく気分転換に書いてみました。 ・・・・・・ というわけで慣れぬ講師をやり、ご接待を受けて帰ってきたわけだが、 もう疲れ果ててしまい、爆睡してしまった。 糞忙しいなか、深夜・早朝出勤を繰り返し何とか仕上げたものだけに(出来じたいに若干の不満はあるものの)まあ、何となく自慢気分も含めて書いているわけだ。 自分自身は、リアルで他人に自慢するのは大嫌いだ。俺の考えの底にはいつも「こんなもんで満足していいのか」という、本質的には自分自身を買いかぶった思いがある。だから、ふだん他人に自慢はしない。大したことはありませんよ。まあまあです。そんな表現しかしたことはない。 しかし、まあ・・・、もう、正直にいっちゃえば、誉めてほしいという気分もある。 そして、今、俺を身内のような立場で誉めてくれる人はいない。一緒になって喜んだり、怒ったり、悲しんだりしてくれる人は、いなくなってしまった。 祭のあとの一抹のむなしさ、といったところだろうか? 何となく寂しい思いもこみ上げてきた。 |
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今日、会社の先輩と話をした。何年先輩なんだろう?年は今年40くらいになったはずだ。 既婚。で、ふたごの娘さん(たち)が生まれたばかり。顔はパッとしない。はっきり言ってしまえば、仕事ができなくて別の部署に飛ばされた人だ。 だが、なぜか、もてる。もてるというか、常にいろいろな女の子と遊んで(ぶっちゃけ、ヤって)いる。 今日もちらっと聞いた話では、会社のエレベーターのなかで派遣社員の子に声をかけて、付き合ったりしていたそうだ。 一体なぜなんだろう、と思った。会社のエレベーターで声をかけて、数時間後にホテルの部屋にいる。そんな構図はまったくもって想像できない。しかもそれが織田ユージとかタケノウチだったら「ああ、ありそうありそう」と思うかもしれない。しかし、先輩は・・・。あんまり書くとひがみっぽい感じになるが、もてるオーラを一切放っていないのだ。なぜ、と思いつついろいろと聞いてみた。 ・・・で、ここでもてるための10か条みたいなものが彼の口から語られる。 などと思った人は大間違い。要はただひたすら声をかけまくって、10人のうち3人ひっかかってくれたらいいかな、と思っているだけだそうだ。 ダメだったらダメ。でも彼の場合は、フツーの人ならダメだと思うシチュエーションでも、神は自分の味方をしてくれる、と思える人間らしい。 たとえば俺も、もともとは仕事上のつながりから、あるタレントとメル友だったりするのだが、彼からしてみれば「GO!」。メールをくれるなんて自分に気がある証拠なんだ、ということになる。俺に「結婚しちゃえよ」とまで言う。6割がたマジでw あつかましいと言うか何と言うか。ポジティブな考え方が功を奏してるんだろうな。98%見習えないと思うが、多少は参考にしようかな。 でもね、先輩。そのうち刺されますよw |
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今日は吉野屋に行って、<並・つゆだく>を頼んだわけだが出てきた牛丼を見て笑ってしまった。もう、汁がご飯を「ひたひたに」浸しているのだ。つゆだくどころではない。つゆがだくだくにかかっている。まったくお茶漬け状態みたいなもんだ。到底しょっぱくて食えたもんじゃない。 結局、水を2回頼んで、半分くらい残して帰った。抗議のつもりでね。まあ、気がつかないだろうけどな。きっとこれからもあの店員はつゆだくだくだくだくの牛丼を出すことだろう。 昨日聞いていたラジオに、渡辺美里がゲストで出演していた。新曲のプロモーション。何でも新曲は、クリスマスに女性が一人で聞くためのクリスマスソングだそうだ。実にあざとい商売だなとは思うが、なるほどな、とも思った。 クリスマスに一人でいることはダメだ、という強迫観念に駆られる人がもの凄く多い、と彼女は言っていた。何だか屈辱感を感じる人もいる、ともね。でも、仕事で恋人と会えない人もいるじゃない。そんな女の子に向けたクリスマスソングなんだ、とのことだ。 確かに、クリスマスは得も言われぬ強迫観念をもって、独り身の男女に迫ってくる。赤プリが満室、なーんて話を聞くと、畜生!やりまくっていやがるんだろうな、と無性に腹立たしくなってくる。また、去年はあの人と一緒にいたのに、プレゼントをもらったのに、なーんて、いらぬ追憶の思いに駆られ、寂しくなったりする。 正直、俺もおととしとかは寂しかったな。あったものがなくなる、っていうのは辛いものだしね。去年はどうだったかな?特に覚えていないな。 多分独りだったとは思うが、取り立てて寂しかったとか焦ってたとか、そんなことはないな。 要は、クリスマス、という「日」がどうこうではなく、その日に関わる思い出がさまざまな思いをかきたて、心理的な変化をもたらすのだと思う。すべて同じ一日ではあるけれど、日付と出来事をきちんと結びつけて記憶されていくのは、やはりクリスマスとか、そんな日なんだろう。 逆に言うと、付き合っている時にきちんきちんとイベントをこなすのは、別れた後に辛くなるかもしれないな、などと思った。 ・・・でもね。 もしクリスマス独りで寂しいな、っていう女性がいたら、声かけてくださいな。一緒に過ごそうよ。 Let's spend the 'holy night' togheter! ↑ あまりにダサくて自己嫌悪。自ら晒し上げ! |
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今日は有楽町にパスポートを受け取りに行った。 6月に受け取り可能だったのだが、そのまま放置しておいたため「12月9日までに取りに来ないと失効するぞ」という脅しのはがきが来たので、取りに出かけたのだ。 もともと、急にパスポートがいるような用事があって申請したはずだが、結局海外に行く用事がなくなったため、放置することになったわけだ。何が理由だったかな、と記憶をたどってみると、ワールドカップだった。 もともと韓国にポルトガルの試合を見に行こうということで、パスポートを申請したのだった。それが、結局ポルトガルも一次予選で敗退してしまったため、まあ、いっか。ということになったのである。 つくづくと、時のたつのは早いなあと思うね。 ワールドカップのことなんて、どの位覚えてるんだろ? 日本が一次リーグで戦ったのは、確か、ベルギーとロシアとあとはどこだ?チュニジア?もう忘れてるな。 ベルギーはヴィルモッツってのがエースだったよな。ロシアは、誰だ?あの皇帝とか言われてたヤツ。・・・わかんねえな。 日本人で点取ったのは、ベルギー戦で鈴木、稲本。ロシア戦では森嶋が取ったような取らないような。中田も取ったかもね。 トルコ戦では、点取られたのはイルハンじゃないよなあ。あのモヒカン野郎。誰だっけな? 要は、もう、まったく忘れてしまったわけだ。 「感動をありがとう」なんて開催中も言った覚えはないし、冷静に見ていたほうだとは思うのだが、どーなんだろうね。他の人々は。 感動というのは、激しく感情を突き動かされるわけで、何かは確実に残っているはずだよな。みんな覚えてるのかね。たった半年前の出来事を。 |
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久しぶりに家の近所のラーメン屋に行った。 夏ごろにオープンした店だが、オープン当初に食べに行った時、餃子を注文したところ「うちはラーメン屋ですからねえ。ラーメンしかないんですよ」などとたわけたことを言っていたため、その後行かなくなっていたのだ。 思うに脱サラか何かで理想を胸に開店したんだろう。ラーメンとはかくあるべき、ラーメン屋とはかくあるべき、と凝り固まっていたんだろうね。4か月ぶりか何かで入った店のメニューにはしっかり「餃子」の文字もあったわけだ。 また、昼営業も開始しました、というチラシとともに、昼メニューではカレーも出すらしい。まあ営業はじめてよくわかったんだろうね。客が望んでることを。 早めの方針転換はいいことだが、奥さんの顔が不満たっぷりだったのは気になるな。なかなか難しいな、商売は。 で、今日は、ボブ・サップだよ。なんと言っても。 まあ、すごいね。肉体のパワーが違う。運動神経がすごい。耐久力がすごい。 何よりすごいのは、あの体重であれだけ動けることだね。 格闘技経験がある人ならわかると思うが、攻撃とは自分の体重をいかにうまく乗せられるかにかかっている。腕力や筋力が重要なのではなく、バランスであり、回転が重要だ。 基本的には体重が増えれば増えるほどパンチやキックの威力は増す。で、その体重を拳や足の甲に集中し、相手に伝えるために、回転力やスピード、反発力が重要になる。大雑把に言ってしまえば、体重×回転力×スピードが破壊力になる。 で、通常、100キロを超えると回転力やスピードが落ちるため破壊力が落ちることになる。 ところがサップはスピードもあり、運動神経も優れている。すると、160キロの体重を十分な破壊力のもとに相手に伝えることができる。これは、かなわない。ホーストとサップでは60キロも体重が違う。競技スポーツでは、普通ありえない体重差である。 60キロの体重差がありつつリングに上がる、むしろホーストの勇気を称えたくなる。 しかもサップはめちゃくちゃだ。格闘技経験のない方は友だちとファイティングポーズを取って向かい合ってみてほしい。で、お互いに目と目を見合いながら片一方がサップのように腰の位置からフックを繰り出してほしい。パンチが見えないはずだ。 見えないパンチなんてすごいじゃない!どーして他の人はサップのようなファイティングスタイルをとらないの?といえば、普通はガードするからだ(笑)。サップの場合、体全体から表れる迫力と圧力が違うわけである。 サップの存在は、格闘技が技術をどんどんと向上させ、高度化していったこととまったく逆行する。もうひとつ、格闘技がルールを細かく規定し、安全と競技性を高めてきたことともまったく逆行している。 サップのやっているのは格闘「技」ではない。「技」なんて何もない格闘。ルールのない無法な存在。 それがこんなに強く楽しいなんて。大げさだが閉塞した社会全体へのアンチテーゼともいえるだろう。 |
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しかし、深夜の文化放送のヲタ度はスゴイもんがあるな。 何だか変な呪文のような言葉を擦り込まれるような気がする。 どうやら知り合いも読んでるらしい(つーか、自分で「書いてるんだよ」って宣伝したくせにぃ)ので、書くのは少しはばかられるのだが、今日はぶっちゃけヘルスに行った。 渋谷の、看板も何もない店だ。マンションの一室。風俗情報誌でも読まなければ決してたどり着くことのない店。だが、なかなかいい店なのである。 今日はカナさんを指名した。結構人気があった元AV女優だ。インディーズではなくメジャーレーベルから数本出していたから知っている人は知っているはずだ。(○○マコトって名前です) まあ、美人だ。かなりね。もうAVからはスッパリと足を洗ったらしい。で、ヘルスにいる。ヘルスのほうがいいんだそうだ。何がどういいのかはわからないが、男優とフツーじゃないセックスをするよりも不特定多数の男のモノをくわえてるほうがいいということだろう(露骨に言ったった!!)。 何が根拠なのかはわからないんだが、娼婦は人類最初の商売だそうだ。想像だが、マグダラのマリアあたりを指しているのかもしれない。 で、彼女は罪を恥じ、改悛する。売春=罪という構図がここででき、さらに改心して信心すれば救済される、というひとつのモデルケースが示されることになる。 それに対して、実は日本神話の方が性的に奔放である。神々の性交渉が国を形づくり、天地滅亡の危機を救ったのはストリッパーである天宇受売命である。実は、性に関する意識は、西洋よりも日本の方が奔放で積極的であったのだ。 ◇◇◇ここで注意◇◇◇ 宗教学や神話については、まったくの門外漢ですので、表記事項は正確ではないと思われます。 ◇◇◇◇以 上◇◇◇◇ しかしながら売春をも「赦される」ことを公言された西洋社会は、性的に暴走していく。一方、奔放な性行動が「神々のもの」であった日本社会は、一般社会においては性行為を秘匿し、恥とともに語られるものとなった。 ◇◇◇◇↑ここまでいいかげんです↑◇◇◇◇ で、だ。 本当はどっちがカネになるのか、それからAVの業界がどんなに酷いのか、よくわからんのだが、たぶん彼女にとっては、密室での出来事であるほうがマシなんだろう。まあ、当然、俺もそうだ。 ずいぶん弱い結論だが、とりあえずエロは隠していこう!ということで。 |
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今日は、久々に同期入社のヤツと、その彼女と飲んだ。 明らかに仲良しのカップルなのに、なぜか知らぬが否定しまくるんだよな。 年の差があるし、そんなつもりで付き合っちゃいないし、云々かんぬん・・・。「どうなの?やっぱり教会で挙式がいいんじゃないの?」とか茶化したら、結構マジメに怒ってやんの。もういい年なんだから適当に聞き流そうよとか思いつつも、めんどくさいんであれこれ言うのをやめた。まあ、うまくやってよ。 で、今日は何となく考えていたことがあって、それは、100%っていうのは要するに1ってことだよな、ってこと。万が一っていうのは、0.01%。 たとえば、ありえないということを表現する時に、「100%ありえない」と「万が一にもありえない」という言い方があるわけだが、言い直せば「100回中100回ありえない」「10000回中1回もありえない」ということになるわけだ。 両者の違いを考えてみる。 トライアルの回数も100回と10000回では100倍違う。100%ないとした場合は100回否定するということ、万が一にもないとした場合は、肯定要因が1回もないということになるだろう。 個人的にはどちらがしっくり来るかといえば「万が一」の方なわけだ。 まあ、100%と言い切る決断力に乏しい、という事情もある。が、「万が一」の方が、どこかにある肯定要因を模索しているような印象があり、好感を持てるということもある。 否定サイドからものごとを考えるか、肯定サイドからものごとを考えるか? 世間一般の最近の風潮からは、否定サイドから思考するケースが多い。「リスクマネジメント」とはまさしくすべてを否定することから始まる。 不要なものは否定し、拒否し、退け、自らの領域をしっかりと守ることは大切なことである。しかしながら、どこかに、何か、きっといいものがある。そう考えていきたいものだと思う。 |
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今日は会社泊だ。二日連続会社の自席で座ったまま爆睡。 昨日は夜11時半頃に起きて一旦家に帰る(で6時に出社)ことができたが、今日は夜10時頃気を失って、気づいたら1時過ぎていた。 俺は今、猛烈に搾取される奴隷労働者となっているわけだ。 他人の悪口を言うのは、結局自分のポテンシャルはここまでだ、ということを晒すこととなるため嫌いなんだが、もうマジで何とかしてくれよ、Sよ。ほんっと愚痴りたくもなるよ・・・。 今日はうちの会社の社長と社員との座談会を開催したわけだが、結局Sがやったのは何よ?チケットの発送と会場への誘導?あ、あとは二次会での飲みか。企画立案から座談会進行案作り、事前取材と資料作り、関係各位への承認。その上にチケットの発注、待合室でのお茶出しまで俺か。 どうしよっか、なーんて言ったまま1週間も2週間も放置する香具師ゆえ、業務の一切を任せられないからやっているわけだが、組織上は一応俺の上司ってことになってるんだぜ。給料も俺より取っているんだし、本当に何とかしてくれよ。つーか、どっか異動してくれよ。マジで。 |
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今日はどうも調子が悪い。マイナスの波動が出ている。 端的に言えば、別れた女を思い出していたのだ。 ・・・本来、この言い方は正確ではない。付き合っていた時間が約10年。別れてから2年。毎日思い出さないことはない。 2年の間に3人ほど別の女と付き合ったがうまくいかなかった。無理に忘れようと思う気持ちが逆にお互いを苦しめたかもしれない。 今では、というか今は、たぶんずっと愛し続けるだろう、と思っている。それ以上に誰かを愛することができるかどうか。それだけだ。 俺は、あいつが悲しんでいるであろう波動を感じることができる。江國香織ではないが、あいつが死んだら俺はそのことを感じるだろう。 あいつは、今たぶん穏やかに暮らしている。強い喜びもないが、悲しみもない。 多分、8月頃は苦しんでいたのだと思う。それを何とか乗り切ったのだろう。 あいつは、プライドが高く我慢強い女だ。決して弱さや脆さを相手に見せたがらない。けれども寂しがりやで、何よりも強く「愛してほしい」と願っている女だ。自分を、自分だけを見ていてほしい、いつも一緒にいてほしい。人一倍そう思っているくせに、逆にクールな態度を取ったりする。 お前の新しい男はしっかりと包んでくれているか?愛してくれているか?強がってばかりじゃダメだぞ。言いたいことはちゃんと言うんだぞ。 |
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今日は何となくセックスについて考えてみた。 世間一般の景気同様、セックスデフレが起きているwと思うね。あまりに安い。安すぎる。 女が尻軽だってだけじゃない。男も下手に出すぎる。「やらせてください。お願いします。」そんなに自分自身を安売りしてどうするんだと思うね。 まあ、そんなオッサンの説教をだらだら続けるつもりはないのでご安心を。 まず考えてみたのは、セックスとは何ぞや、ということ。 手元に辞書がなかったんでインフォシーク辞書引いたんだが、 sex [seks] ━━ n. 性; 男性, 女性; 性行動[行為]; =sex organ. とのことだ。 まあ、第一に「性」なんだよね。性行動[行為]っていう二義的な意味でも、別に男女間で、女性器に男性器を挿入する行為に限っていないわけです。 オーラルセックスもあればアナルセックスもテレホンセックス(笑)もある。 要は性的刺激を獲得するための行為ってことなんだろうな。ホモもレズもセックスしてる、って言えるのだと思う。 で、「愛のあるセックスじゃなければダメ」だ何だとは言うが、本当にセックス(=性的刺激を得るための行為)に愛が必要なんだろうか?細かく分類したい。 ◇正常性交・・・早撃ちを避けるために別のことを考える行為は愛なんだろうか?男女間でお互いに愛があれば、早かろうが中出しだろうが構わないはずだ。よって、愛よりもリズムと持久力と角度などが大切。 ◇ホモセクシャルのアナルセックス・・・人間には肛門期と呼ばれる排泄の快感を味わう時期がある。肛門性交は幼児期への回帰現象のひとつといえる。よって、愛よりも本能が大切。 ◇パイズリ・・・これはもう、問答無用に愛よりもテクニックが重要。 ◇フェラチオ・・・排泄器でもある性器をくわえる行為はかなりのカネか愛が必要。よって、フェラチオは愛の象徴。 正常性交よりもフェラのほうが愛がある、ということになった。 つーか、ごめん。正直めんどくさくなっちゃったw! |
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師走の朔日だというのに、一日中寝通しだった。 正確に言えば、朝の4時までは映画を見ていて、それからネットカフェに行き、その後、田舎から上京した父親が宿泊しているホテルに行ってご飯を食べて、秋葉原でマウスを買って、午後一時頃家に帰ってから寝通しだということになる。 書き出してみたら、いろいろ動いてたじゃん。俺。 で、ホテルでのこと。宴会場で花篭部屋の創立10周年パーティを行っていた。 花篭部屋は名門ながら、元横綱輪島が借金のカタに親方株を取られたかなんかで一度解散の憂き目にあったものを元関脇の太寿山が再興したものだ(ったと思う)。 確か、山梨の大月に部屋を構えてみたもののダメで都内に戻ってきた経緯もあったはずだ。いろいろと紆余曲折ある部屋である。 パーティに招待を受けていたわけでも何でもなく、俺はやじ馬的に会場受付周りの喧騒を眺めていたわけだが、飾られた花環を見て思ったことがある。 花環の贈呈者が、会社名義のものも個人名義のものも少ないなあ、ということ。多くは「○○町花篭部屋後援会」とかの有志団体からのもの。何となくの印象だが、いわゆる個人の「タニマチ」みたいな人は少なくなっているんだろうな、と思った。企業名というのも同様に、かつてはきっと個人のオーナー企業なども後援者として名を連ねていただろうものがなくなっている。 もちろん不況というものもあるが、相撲に関わる人々の姿勢が変わりつつあるということではないだろうか。 かつては、タニマチとして相撲取りを引き連れ、繁華街で豪遊するなどという遊びがステータスであったように聞く。地方巡業の際も、地元の名士たちは自分の家に相撲取りを泊まらせ、贅を尽くしたおもてなしをすることで「福」がやってくるという意識があったようだ。相撲取りは金満と福(金萬福じゃないよ)の象徴であり、健康的な体力の象徴であった。 しかしながら、現在では写真週刊誌などにスキャンダルラスな姿が撮られたりと、相撲取りのイメージも変わって、要は「地に堕ちて」いる。盲信的に力士に経緯と愛着を持つメンタリティは失われてきている。今後はどんどん「単なるデブ」として軽視されていくのではないか。さらに、外国出身力士が上位を占めるようになってきた影響もあるだろう。「おらが村の力士」が少なくなってくれば、自然と注目度は下がっていく。 そのような状況において、お客さまと相撲というスポーツの関わり方も徐々に変わらなければならない。かれこれ十数年前から多分言われていることだとは思うが、あまり変わっているようには思えない。そこで、俺の意見! ◇全部八百長にしたら? 力士ごとに星を管理するんじゃなくて相撲協会側でしっかりと勝ち負けと管理し、ちゃんとしたコピーライターとシナリオライターを入れてショーとしての価値を高めていくこと。WWEみたいなもん。どうせ国際競技でも何でもないんだし、それでいいじゃん。 |